おめでとう!マイ・スイート・ドーター!!! 映画「ビリギャル」ネタバレ感想

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「映画ブログ」を運営しておきながら、子どもが生まれてから映画を全然見なくなった僕ですが、それでもたまに映画を観る旅に「最近”映画の見方”が変わってきたな~」と感じます。
子どもが生まれるという人生最大級のイベントを経験したからなのか、映画漬けの生活スタイルが変わったからなのかはわかりませんが、映画に対する”感動ポイント”が大きく変わったなぁ~、と。

先日観た「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」通称「ビリギャル」もまさにそういう「自分の中の感動ポイントの変化」を自覚できる映画でした。
数年前の自分の感性であれば、おそらくはかなり否定的な見方をしただろうと思えるこの映画。
しかし、”親子”を描いたふいの1カットに思いっきり涙腺を刺激されてしまいました。
そんな自分の中の変化に自分自身がまだついていけてなかったりもするんですが、「昨日まで嫌いだったものがふいに好きになる」。人間って不思議なもんだなぁなんてことを思わされる映画体験でした。

作品概要

2015/日本 上映時間:117分
配給:東宝
監督:土井裕泰
出演:有村架純、伊藤淳史、野村周平

<あらすじ>
投稿サイトに掲載された実話を書籍化しベストセラーとなった「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」を、ドラマ「あまちゃん」の有村架純が金髪ギャルに扮して映画化。
名古屋の女子高に通うさやかは、偏差値30の学年ビリという成績。見かねた母に塾へ通うことを提案され、入塾面接で教師の坪田と運命的な出会いを果たす。
金髪パーマに厚化粧、耳にはピアス、極端に短いミニスカートというギャル全開なさやかに面を食らう坪田だったが、さやかの素直な性格に気付き、ふたりは慶應大学への受験合格を約束することに。
偏差値30のギャルが、偏差値70の慶應大学現役合格を果たすまでを、笑いと涙で描いていく。

感想

48 100点満点 scored by ultimate-ezビリギャル

というわけで、結果的にすごくいい気持ちで感動した映画なんですが、なんせその感性を自分自身が制御できておらず、映画の内容を思い返してみると、「本来の自分の感性であれば嫌いなはずの要素」が目立つ映画でした。

本作のあらすじはまさに長~いタイトルそのまんまで「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」という内容で、”負け犬がドン底から這い上がる”というベタな話なんですが、正直この映画からはこの手のベタなストーリーの醍醐味がまったく感じられません。

その理由はいろいろあるんですが、まず、主人公さやかちゃんが成績を上げていく”理屈”の部分が描かれていないことが一つ。
基本的に、ただ「頑張ったから」というだけの理由で彼女は慶応に合格してしまいます。

さらに、”なぜ、慶応に行きたいのか”というのも、これという強い動機として描かれません。
だから、彼女の気持ちには共感しづらく、見事合格を果たした場面でも強いカタルシスが生まれてこないんです。

さらにさらに、この手の話で大きな山場となるはずの「乗り越えるなければいけない壁」「勝たなければいけない強敵」というのも存在しません。
もちろん、さやかちゃんを馬鹿にする学校の先生や対立する父親はいるし、「受験の最大の敵は自分」という障壁は登場するものの、乗り越えたことでカタルシスを感じさせるほどの「壁」というのが存在しないんですよ!

私事で恐縮ですが、僕も高校時代は学年ビリこそ取ったことがないものの、クラスでビリ、学年で下から5番目の成績は記録したことがありまして。
ただ、高校卒業間近に行きたい大学を見つけ、一浪して、偏差値は忘れちゃったけどセンター試験800点満点中250点くらい点数をアップさせて行きたい大学に合格したという経験をしています。
浪人生活の一年間はそれこそさやかちゃんみたいに生活を勉強に捧げたんですが、何が一番きついかって言えば、あの年代にとってはやっぱり友達関係だと思うんですよ。
自分より成績の良かった”友達”の偏差値を追い抜く度に、その友情関係が少しづつおかしくなっていく。そんなことを経験した身としては、友達が変わらない友達のままでいてくれる限り、さやかちゃんのいる場所がドン底には見えないわけです。
(まあ、僕の友達関係がおかしくなったのは、成績が上がって僕が調子に乗っていたせいなのかもしれませんが。。。)

そんなわけで、彼女が偏差値を上げていく理屈も同期もない。乗り越える壁もない。
だから、例えばロッキーがドン底から這い上がって試合に勝利するような、ああいうカタルシスはこの映画にはまったくありません。

それで、映画が成立するのか?っていうレベルのマイナスポイントにすら思える欠陥ですが、ただ、冒頭にも書いたようにそれでも感動できてしまうのが今の俺!!!

なぜかというと、それはさやかちゃんを”親目線”で見ているからですよ。さやかちゃんに共感はできなくても、さやかちゃんに息子を重ねて見てしまう僕は、がんばってる姿に胸を打たれるし、凹んでる姿をみると胸が痛いし 、合格したことは超喜ばしい!
「おめでとう!マイ・スイート・ドーター!!!」という謎のテンションで、彼女の成功に感動してしまうわけです。
我ながら非常にやっかいな感覚で、理性はなかなか受け入れられない感情ですが、感動してしまうんだからしょうがないのです!

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さらにこの映画、語り口が非常に恣意的なのも本来であれば嫌なところだったりします。

原作本「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」の著者は坪田信貴。
つまり映画では伊藤淳史が演じた坪井先生が書いた本なんですが、それを知って映画を見返してみると、ちょっと気になるところも多い気がします。

主人公さやかちゃんの味方は、坪井先生とお母さんであるあーちゃんの二人。(あと妹もか。)
そんな味方の二人それぞれに、わかりやすい対立構造として、生徒をクズ呼ばわりする最低教師と、息子”のみ”に偏った愛情をぶつける父親が存在しています。
この映画における先生と父親は徹底的に間違っていて、完全に悪の存在として描かれます。

ただこれってどうなんでしょう。
おそらく彼らには彼らの正義があったし、坪井先生やあーちゃんにも間違った部分はあったんじゃないかと思うわけです。
例えば、常にさやかちゃんを肯定し応援してくれるあーちゃんは素晴らしい人物だし、ああいう視線で子どもに接したいとは強く思えるものの、あそこまでの全肯定が本当に正しい教育方針なのかとも思ってしまうわけです。
あーちゃんが彼女を肯定し、ワクワクすることだけをさせていた結果、受験勉強を始める前のさやかちゃんは「どうせ私なんて勉強しても意味ないっしょ」という発言をしていたじゃないですか。
これって、自分自身の未来に希望を見出せていない状態なわけで、子どもをそういう精神状態にさせてしまったという点では、父親が息子にやったのと同じく”間違い”を含んだ教育方針だったと思うんですよ。
逆に、あーちゃんがいたからこそさやかちゃんは頑張れたわけで、そういう意味で本当に素晴らしいお母さんなのは間違いないんですが、本当はお父さんにもそういう「素晴らしいお父さん」の側面はあったんじゃないかと思うし、そこを感じさせない一方的な描き方はどうなのかな?と思ってしまうわけです。

もちろん、2時間前後でストーリーを語る映画において、人間関係の複雑なすべてを描くことは難しく、ある程度「この人は悪、この人は善」と記号的に描かなければいけないこともあると思います。
ただ、この映画のなかで坪井先生はこういう言葉をさやかちゃんに言うんですよ。
「ニュースっていうのはね、どこを切り取るかで全然見方が変わってくる。一つの出来事を様々な視点で観察しないと真実はわからないよ」と。
もちろんこれはあくまで小論文という受験教科のアドバイスなんですが、映画の中ではわりと強調されている言葉。
そんな言葉を言っておきながら、学校の先生やお父さんの側の”正義”を描かないというのはちょっと誠実さにかけるなぁ、と思ってしまいました。

その視点の偏りは映画の最後まで崩れることはなく、学校の先生には”制裁”(これもこれで、それは逆に問題になる行動すぎて感想がブレるわ!と思う制裁でしたけど。ちょっと前にもありましたよね、大学教授が構内で裸になってどうこうという”事件”。)、父親には”許し”が与えられることで物語は終わります。
さやかちゃん、坪井先生、あーちゃんは最後まで常に完全に正しく、間違っていたお父さんは”許される”わけです。

”父親”である僕からしたらちょっとモヤっとしたものが残るエピローグなんですが、これまた「娘との和解」を表す1カットだけで、”モヤっ”をすっかり忘れ、完全に感動してしまう今の俺!!!
それまでの不満点などきれいさっぱり忘れ、「ああ、家族っていいな!」なんてことを考えながら感動させられてしまうわけですよ。

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というわけで、”親子”を描いていたり、”親目線”が差し込まれるだけで簡単に感動の渦に飲み込まれてしまうこんな感性を持った僕が、映画ブログなんて書いてていいのだろうか?とも思ってしまいますが、こんな感性で書かれるブログも世界中のどこかの誰かの役には立つのかもしれないな~なんてことを思いながら綴っておりますよ。はい。

最後に、僕はこの映画を4月初旬に開催された完成披露試写会で鑑賞したんですが、その場で生の有村架純を見て、その可愛さに完全にやられていたこと。
有村架純の「スカート履いていません」発言に、結構ドキッとしたこと。
そして僕は、いわゆる”清純派”な女の子より派手めな女の子の方が好きなので、金髪バージョンの有村架純が黒髪清純バージョンの有村架純よりもはるかにタイプであること。
そんな金髪ギャルの有村架純ちゃんが映画の序盤では胸の谷間や太ももを惜しげもなく披露してくれたこと。
以上を加味すると、例えばこの映画が有村架純ちゃんじゃなく、さほど可愛くない女の子が主演だったとしたら、上述した感想の不満点と感動のバランスは完全にひっくり返っていたんじゃないかと思えてきました。

となると、不満なはずのないようにも感動してしまうのは、「子どもができて感性が変わった」なんてことじゃなく、単に有村架純が超かわいいから全肯定しているだけなんじゃないかという気もしてきましたが、そんな疑惑には気がつかないふりをして今日の感想を締めたいと思います!
パッカーーン!