一分の隙もなく美しい映画。 『ぼくのエリ 200歳の少女』ネタバレ感想

ぼくのエリ 200歳の少女 [DVD]

死ぬまでに観たい映画1001本』より、『ぼくのエリ 200歳の少女』を観ました。

この映画は、僕にとってはすでに3度目の鑑賞で、公開時には見逃してしまったんですが、評判を聞いてDVDで鑑賞し、思いっきり夢中になってしまって。
その後、原作の『MORSE(モールス)』を読み、さらにクロエちゃん主演のリメイク版は映画館で鑑賞、と、非常に個人的な思い入れは強い映画です。
それこそ、「好きな映画オールタイムベスト10」に入るくらいの。

何が素晴らしいって、この映画、ホントにひたすらに“美しい”んですよ。

普通、映画と原作の関係って、映画を観た後の原作を読んだ場合は冗長で退屈に感じたり、原作を読んだ後に映画を観ると変更された設定やカットされたシーンにいらだったりするんですが、本作に関しては原作を読んでもリメイクを観ても、「大好きな美しい世界観」を共有する一続きの作品群として、全然魅力が損なわれないのがスゴい!
今回、また改めて鑑賞してみても、やっぱりキレイ!
全く損なわれないその魅力に、あらためてやられてしまいました。

作品概要

2008/スウェーデン 上映時間:115分 PG12
原題:Let the Light One in
監督:トーマス・アルフレッドソン
出演:カーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション

<あらすじ>
内気で友達のいない12歳のオスカーは、隣の家に引っ越してきた不気味な少女エリに恋をする。しかしエリの正体は、人間の血を吸いながら町から町へと移り住み、200年間も生きながらえてきたバンパイアだった。

感想

98 100点満点 scored by ultimate-ezぼくのエリ 200歳の少女

というわけで、世界観が大好きな映画『ぼくのエリ 200歳の少女』なんですが、もうね、この映画の“色彩設計”の徹底っぷりはヤバいですよ!

基本的には彩度を極端に落とした“限りなくモノクロに近い”世界が舞台。
主人公オスカーは、透き通るほどに白い肌の少年で、髪の色もプラチナブロンド。
対するもう一人の主役である「エリ」は、同じく真っ白い肌を持ちながらも、髪の毛の色は黒。
舞台となる北欧の小さな田舎町は、そこかしこが雪に覆われていて、広がる風景に目立った“色”はありません。

そんな中、あらゆるシーンにちょっとだけ“赤いもの”が配置されているんですよ。
オープニングで夜の街を走るタクシーのテールランプとタクシーメーターに始まり、エリとともに暮らすおっさん(ホーカン)のセーター、町の人たちが集うバー(パブ?)のドアに描かれた店名や看板。窓にかかるカーテン。新聞のロゴ。街角で膨らむ花の蕾。
ホーカンが死体を運ぶのに使うソリ。
死体を溝に沈めるために使う棒。
オスカーが遊ぶインディアンの人形に、お父さんの家。
キッチンの水差し。
そして、エリの勝負服。

あらゆる場面において「白黒+という設計がきっちりと守られています。

それが偶然ではないことを証明するように、オープニングでは夜の景色(黒)に白地でクレジットを表記している中、映画のタイトルだけは「赤文字」。
そして、一番最後のエンドロールの背景も、いつのまにか黒から赤へと変化していきます。

この色彩設計。
単純にオシャレというだけでも十分魅力的なんですが、そこにちゃんと“意味”が乗っかっているのがさらに素晴らしいところ。
「白黒」で成立している世界に入り込んだ“異質な何か”
その色は“血”の象徴と思しき「赤」。
これはもう、色彩によって「エリ」という存在をあからさまに暗示しているわけです。

1カット1カットの「画」の中で、映画のテーマ・コンセプトをしっかりと表現しているこの“完璧主義”っぷりが本当にステキです。

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そしてもちろん、見た目だけじゃなく、物語も魅力的!

この『ぼくのエリ』という物語ですが、上述したように、僕はこの映画だけじゃなく、原作小説、リメイク版映画と触れてきたんですが、当然ながらそれぞれちょっとづつ違いがあります。
その「違い」が一番顕著なのが、エリとホーカン(エリと暮らしているおっさん)の関係性にあります。

まず、すべての物語の原典である原作小説版では、ホーカンはペドフェリア(幼児・小児を対象とした性的嗜好)のおっさん
幼い見た目に妖気をたたえたエリにハマってしまったホーカンは、エリのための「血の提供者」としてエリに従っています。
二人が知り合ったのは比較的最近のことで、ホーカンの血を採取の段取りがメチャクチャ悪いのも、まだその作業に慣れていないことが原因です。

一方、クロエちゃん主演のリメイク版でのおっさんは、幼いころにエリと知り合った少年が成長した姿。
明示的に語られるわけではないんですが、幼いホーカンとエリのツーショット写真が作中に登場するため、その関係性は間違いないでしょう。

そして、『ぼくのエリ』ではどうなのかと言えば、、、この映画では2人の関係性について、特に何の説明もされないんです。

この違いが、超大事!!!
この違いがあるからこそ、僕は原作よりもリメイク版よりも、この『ぼくのエリ』が一番大好きなんですよ!!

というのも、僕が初めてこの映画を観たとき、この映画の終わり方になんとも言えない後味を覚えまして。
「モールス信号」で語り合う二人の関係はやっぱり美しく、その一瞬を切り取ると間違いなくハッピーエンドではあるんだけど、これって決して“ever after”“めでたしめでたし”とは思えないんですよ。
結局、この二人が10年20年の時を過ごすうちに、幼い姿のままのエリの横で、オスカーは年老いていくわけで。
そうなれば、いつかはこの二人もエリとホーカンのような関係性(まるで老夫婦のように罵り合う関係)になってしまうんじゃないか…。
そういう余韻を感じずにはいられなくて。

そういう意味で、『ぼくのエリ』のエンディングって、非常に刹那的な印象を受けるんですよ。

一方原作において、オスカーとホーカンは決定的に違う存在。
オスカーがホーカンになることはないことが保証されているわけです。
それ故に、エリとオスカーの戯れる姿を窓越しに並べるホーカンの視線は映画以上に辛いものが。
そして、酸をかぶったホーカンが「エリにたいする性衝動だけを暴走させた理性を持たないモンスター」に変貌するという、映画にはない展開が待っています。
勃起したチ○コから精液を垂らし、性衝動だけで動くホーカンの姿はどこか滑稽で、だからこそなんだか凄く悲しい。。
映画が好きな人ならば、一読の価値がある展開でもあるんですが、「オスカーがホーカンになることはない」という事実をはっきりと描いてしまうことは、映画版にあった“余韻”を大きく損なってしまいます。

そして、クロエちゃん版の『モールス』はと言えば、こちらは原作とは逆に「オスカーは未来のホーカンであり、オスカーとエリが惹かれあう理由は男女の恋愛感情」とはっきり描いてしまっていて。
これはこれで「関係性がわかりやすい」という意味では確かに超わかりやすいんですけど、同時にまったくもって「美しさ」がないんですよ!
これだと、エリにとってのオスカーは「数十年単位で乗り換えている従者(もしくは、奴隷)」にしかならないわけですよ。
もちろんん、ただの奴隷が欲しければ大人の男を選べばいいのに少年を選んでいることから、「アビーはただの奴隷を求めているわけじゃなく、友達を探している」とも取れるんだけど、それは「はじめて」でも「唯一」でもないわけで。
結局のところ、エリっていうのが『自分の生命や生活を守るために、無垢な少年を利用している危険な女ヴァンパイア』として描かれてしまっているわけです。
(まあ、これはこれでクロエちゃんのアイドル映画としては間違ってもないんですけどね。)

というわけで、原作・リメイク版共に、方向性は違うけれどエリとオスカーの関係性をはっきりと描いていて。
そのため、映画内で物語が完結してしまっているわけです。

それに対し『ぼくのエリ』では、「ホーカンが残した“赤い棒”をオスカーが受け継ぐ」なんていう原作にない要素を入れながら、明らかに「オスカー=ホーカン」を暗示しつつも、決してはっきりとは描かなくて。
その結果、「エンディングの後」について強く意識させられるエンディングを迎えるわけで。
そして、それこそがこの映画特有の「余韻」になっているんですよ。

映画って、もちろん観ている時間が楽しいメディアではあるんですけど、“その映画を思い出している時間”にこそ愛が深まる特性を持っていたりもするわけで。
だからこそ僕はこうやって、感想をブログで綴ることで意識的に“その映画を思い出している時間“を作っているんですが、この映画のように“余韻“がある映画ほど、「愛」の深まり方が強い!
そしてそれこそが原作にもリメイク版にもない、『ぼくのエリ』の決定的な魅力なんです!!

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そして、、「ヴァンパイア版小さな恋のメロディー」なんて表現されることのある本作ですが、やっぱり何だかんだで、「オスカーとエリの関係性」こそが、この映画の最大にして決定的な魅力!!
原作を読んでみると、この映画があえて「オスカーとエリの関係性」だけに焦点を絞りきっているのがわかるんですが、その編集は間違いなく大正解です!

この2人の関係性っていうのは、ただ単に「好き」という結びつきだけではなく、お互いにとって“初めて”の、そして“唯一”の友達。
そして同時に、自分が生きていくために必要な存在でもあるわけですよ。
いじめられっこのオスカーはエリによって助けられるし、エリはエリで一人では生きてはいけない生物なわけだし。

はじめこそ、オスカーがエリに片思いしているような「恋愛」に似た関係性にあって、エリはどこかオスカーを突き放すような態度をとっていたものの、それぞれの「孤独」を本能的に共感しあった二人は徐々に向き合い始めて。
さらにオスカーの流した血にむしゃぶりつく姿をさらしてしまった時点で、オスカーからエリへの“憧れの気持ち”は消え去り、むしろ、オスカーの方がエリに対して強気な態度を取り始めるんですが、そこでエリは、もう一度ちゃんとオスカーと向き合えるように、それこそ“命がけ”で自らの存在をオスカーにつきつけるんですよ。

これがもう!本当に美しい!!

自分が生きるために相手を利用しようとしている関係性ながら、相手の信頼のためならば命を投げ出せる。
原作にある「生きたくて殺したくなる?ほらね、同じだ」というエリのセリフが象徴的であるように、この二人は性的な欲求ではなく、恋愛感情ですらなくなく、限りなくエッセンシャルな「お互いがお互いにとって必要不可欠な存在である」という関係性をさらにもう一歩昇華させ、「同一化」と言えるレベルの関係性を築き上げていくわけです。
映倫による「ぼかし」がかけられている日本公開版ではわかりにくいですが、エリの股間には去勢の後が残っている。つまり、ヴァンパイアになる前の性別は<男>で、そもそもが男女の恋を描いた作品ではないんです。じゃあ、「200歳の彼女」っていう副題はなんやねん!ってことなんですが、、、うーん、ほんとになんやねん!!!
だからこそ、「生きるために相手を利用すること」と、「相手のために死を覚悟すること」が矛盾することなく共存できるわけですよ。

そして、「“初めて”の、そして“唯一”の友達」というレベルではなく、「“初めて”の、そして“唯一”の自分と同じ存在」との出会いという奇跡。
この奇跡のかけがえのなさこそが、この映画を真の意味で“美しいもの”たらしめているんじゃないでしょうか!

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というわけで、今日の感想はまた久々にクソ長く、そのくせほとんど中身のあることを書けていないんですが、「生涯ベスト級」といえる映画の感想ってきっとまあこういうもの。

画面に描かれる映像が1カットのムダもなく美しく(初見では「ネコちゃん大暴走」のシーンが無駄にも感じましたが、アレが無いリメイク版を見るとわかります。アレ、必要!)、エリとオスカーの関係性が美しく、そしてその2人の先にある未来を思うと2人が旅立っていくあの刹那的な瞬間の儚さが美しい!!

そんなわけで、一分の隙もなく“美しい”「完璧」な映画でした。
まあ、「ぼくのエリ 200歳の少女』という邦題のダサさ(そもそも「少女じゃないやん!」という嘘も含まれてるし。。。)、映倫が入れた謎のぼかし(”モノ”が映っているなら百歩譲ってぼかしを入れても仕方ないことですが、この場合”モノ”は無いわけで。そして“無い”ことこそが重要なシーンなのに!!)、Blu-ray化されていない(売れないという判断なら仕方ないことではありますが。。)という、日本においての展開にたいする不満は感じずにはいられませんが。。。

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