ふり注ぐ「陽射し」と「眼差し」という名の“救い”。 映画『シークレット・サンシャイン』ネタバレ感想

シークレット・サンシャイン [DVD]一見すると地味な映画なんだけど、映画としての完成度がとにかく高い作品だった。
一言で言えば「救い」の話なんだけど、そこに至る過程として描かれる「絶望」の深さがとてつもない。
ここまで描ききった映画って、ちょっと見たことがない。
結構前の映画で完全にスルーしていた映画なんだけど、個人的には近年の韓国映画の傑作『息もできない』『母なる証明』と並ぶとんでもない映画でした。

韓国って、国家としてはなんだかいろいろとある国で、もちろん色々と思うところはありますが、こと映画に関しては凄いレベルにある国。
なんだかんだで、何の障害もなく韓国映画を観ることが出来る環境が続くといいなぁ。

作品概要

2007/韓国 上映時間:142分
原題:密陽
配給:エスピーオー
監督:イ・チャンドン
出演:チョン・ドヨン、ソン・ガンホ

<あらすじ>
夫を亡くし、生きる希望を失っていた32歳のシネは、夫の故郷の地方都市ミリャン(密陽)でピアノ教室を開いて新たなスタートを誓う。だが、ミリャンでも彼女を新たな悲劇が襲い……。

感想

96 100点満点 scored by ultimate-ezシークレット・サンシャイン

この映画のすごさ、それは冒頭にも書いたけど、やっぱり「絶望」の描かれ方。
これが、とにかくすごい。
テーマの根っこの部分に「宗教」がかかわっている映画で、基本的に”ほとんど無宗教”の僕には理解できない部分も少なくはないけれど、それでも、ここで描かれる「絶望」の深さにはガツンとくる。

平たく言えば、宗教と言うものが持つ「危うさ」こそが絶望を生むという話なんだけど、「問題作」とのラベル付きでいくつも制作されてきた「宗教のタブーに触れた映画」とはちょっと次元が違う感じだ。

本作の主役は、夫を亡くし、息子と二人で夫の地元ミリャン(密陽)へと引っ越して来たシネという女性。
さらなる不幸として、息子が誘拐され、殺害されるという展開が彼女を待っているんだけど、そこに至る展開から早速救いがない。

死んだ夫は浮気をしていたなんていう問題が浮かび上がってきたかと思えば、そのことで実弟と喧嘩しているところを息子に目撃され、翌日(誘拐当日)の息子とのスレ違いの原因となる。
さらに、引越し先の町の人と馴染めない日々の中、ようやく打ち解けるキッカケとして、近所の人とカラオケで盛り上がっていた時間に息子が誘拐されてしまう。
しかも、誘拐と殺人の犯人は身近な人物で、調子に乗って金持ちであるかのように振舞っていたシネ自身の行動こそが、犯人の誘拐計画の直接のきっかけになっているのだ。

もちろん犯人が100%悪い事件なんだけど、何だかんだでシネの無用心さや迂闊さが不幸を呼んでしまっているのがキツい。

やがて、近所の人の勧めもあり「キリスト教」を心の拠り所としていくシネだが、不幸の連鎖への「救い」として宗教にのめり込んでいく姿には確かな説得力があった。
ただ、「うわぁ。。。絶対これは良くないことが待ってるなぁ。。。」と予感させる不穏な「救い」で。

そして、予感していた通り、本作の最大のキモとなる”あの瞬間”を迎える。

キリスト教的思考を突き詰め、協会に通い祈りを続ける中で、ついにシネは「自分をどん底に追いやった犯人を許す」ことを決意し、犯人と対面するんだけど、そこにいたのは自身もキリスト教の教えと出会い

「罪人のこんな私でも、神に許されたのです」

と語る犯人の姿だった。

自分がひたすら苦しみぬいて悩みぬいた果てにたどり着いた「許し」
それは、自分の犯した罪に深く苦しんでいる犯人に対して向けられるはずのものだった。
しかし、犯人はすでに許されていたのだ。神によって。

これって、明確な「教えの矛盾」
「相手を許せ」と説いておきながら、「許されるべき対象」は神によって既に許されてしまっていて不在というズレ

ここに矛盾があった結果、シネが本当の絶望を経て、長い苦しみの果てにようやくたどり着いた崇高な気持ちが、実は何の意味もない「許しの形骸」に過ぎないってことになってしまうのだ。

これはキツい。。。

本来「救い」のために存在するはずの宗教。
シネももちろん、絶望の中で唯一頼れるものとして「宗教」にすがっていた。
しかし、実はその「救い」こそが、ある条件下においては、より深く人を裏切り、より深く人を傷つけるのだ。

この映画は決して「宗教」を肯定する内容ではないが、もちろん真正面から否定しているわけでもない。
ただ、大多数を救う一方で、ある個人を想像を絶する絶望の深みに叩き落すこともありうるという「宗教」が持つ事実。
この「事実」を、客観的な視点で淡々と描いているのが印象的だった。

Secretsunshine

ただ、この映画は「絶望」の映画ではなく、やっぱり「救い」の映画なんですよ!

運命に裏切られ、唯一の救いにも裏切られたシネは、自分に入信を勧めてくれた人の夫でもあり、教会の幹部的な人物である男を誘惑したり、集会の会場に万引きで手に入れたCDを流したりと、祈りの場をかき回す行為にふける。
さらに、「壊れた」ような行為に出たり、手首を切ったり。
「宗教」そのものに復讐するかのように、破壊的な行動を続ける。
もちろん、その行為によりシネが救われることはないんだけど、その精神状態が痛いくらいにわかってしまうため、その行為を責めたりたしなめたり出来ず、たまらない気持ちがこみ上げてくる。

ただ、全てに裏切られたシネを最終的に救うのは、映画の冒頭からずっとシネに寄り添っていたキムという男なのだ。

このキムという男。
正直、シネと分かり合うことはなさそうなキャラクターだし、最後に結ばれるビジョンも見えない。
それでも、励ましたり正したりするでもなく、すべてを理解するわけでもなく、「ただ寄り添うだけ」の男の想いが、最後には、シネの救いたりえるというのが素晴らしくステキだ。

映画は、髪を切るシネと、その横で鏡を持って寄り添うキムの姿、そして、そこに降り注ぐ陽差しを捉えたシーンで終わりを迎える。
最後のカットはたっぷり30秒ほど、二人のいる庭の片隅に落ちる「陽差し」だけを捉えた映像だ。

どんな時も、ただシネに降り注いでいた「陽差し」。
あまりにも当たり前のものが、最後には本当の意味で人の「救い」になることを暗示させるステキなエンディングだ。

しかも、本来ただの地名である「密陽」という漢字を英訳した「シークレット・サンシャイン」という言葉に、実は映画のメッセージが凝縮されていることにも気づかされるというのが、これまたステキ。
決して派手なものではないけれど、映画として非常に美しく、完成度の高いエンディングだった。

また、作品としてのクオリティを支える主演二人の演技もかなり素晴らしい。
時に超かわいい少女に見えたかと思えば、疲れ果てたおばさんにも見える、チョン・ドヨンの表情の変化の幅がすごい。
(「宮崎あおい」に似てるな〜と思ったら、「いとうあさこ」にしか見えないシーンも。)
この表情の幅によって表現されるシネの心の機微が、本当に胸を打つ。

対するキム役のソン・ガンホもまた魅力的。
彼こそが「秘密の陽差し」を体現した人物で、不器用で、バカなおっさんではあるんだけど、シネに寄り添い、包み込むまなざしの暖かさが、これまたたまらなく胸を打った。

いやー、本当に引き付けられる映画だった!

そんなわけで、「救い」という深いテーマを正面から捉え、真の意味での「絶望」と、そこに寄り添う「救い」を描いた、ものすごい完成度の傑作映画『シークレットサンシャイン』。

ただ、そういう映画の完成度とはまったく別の点で、驚きの発見があった。

実は、今月頭に子どもが生まれ、「親」「父」という存在になったんだけど、この映画のキーとなる「誘拐」のシーンで、これまでに経験したことのないような動悸が襲ってきて、はっきりと「恐怖」を覚えてしまった。

その緊迫感があったからこそ、その後の「絶望」、そして最後の「救い」の過程を食い入るように観ることになったのもまた事実で。
この感覚って、映画そのものの出来とは関係なく、受けてである僕自身の現状に依存した感覚だ。

こうやってブログで映画の感想を書いて、評論めいたことを綴ってみたところで、結局のところ映画の評価基準なんて、「ぼくがかんがえたえいがのこのみ」という幼稚なものに過ぎないんだな~ということを痛感した。
そして、だからこそ、こうやって自分の考えたことをブログという形で記録し蓄積していくことに、少なくとも僕本人にとっては意味があると思うのでした。

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