映画とは“夢”を生み出す魔法なんだ! 映画『ヒューゴの不思議な発明』ネタバレ感想

Hugo01タイトルの語感から『チャーリーとチョコレート工場』や『マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋』みたいなファンタジー寄りの作品を想像していたんだけど、全然違う物語でびっくり。エピソードの多くは史実に基づいていて、ほとんど“映画史モノ”の映画だった。
映画黎明期、映画がまだ“魔法”にすら見えていた時代。映画人たちの「俺達は今、“夢”を作っているんだ!」というアツい想いに心が震えると同時に、自分がいかに“映画”というものが好きなのかってことも再確認。
なんとも素晴らしく素敵な時間を与えてもらった。

物語の本筋である「少年がアイデンティティを確立する物語」が感動的で、「人生に希望を見いだせなくなった老人が再び立ち上がる物語」としても泣ける。さらに、あふれんばかりの“映画愛”に包まれていて、とてつもなく優しい映画で。
なんというか、、、もう、、、最高です!

作品概要

2011/アメリカ 上映時間:126分 G
原題:Hugo
配給:パラマウント
監督:マーティン・スコセッシ
出演:エイサ・バターフィールド、クロエ・グレース・モレッツ、サシャ・バロン・コーエン、ベン・キングズレー、ジュード・ロウ

<あらすじ>
1930年代のパリ。父親の残した壊れた機械人形とともに駅の時計塔に暮らす少年ヒューゴは、ある日、機械人形の修理に必要なハート型の鍵を持つ少女イザベルと出会い、人形に秘められた壮大な秘密をめぐって冒険に繰り出す。

感想

97 100点満点 scored by ultimate-ezヒューゴの不思議な発明

まず、この映画の魅力のはなんといっても3D映像の美しさ。
実写なんだけど、どこかCGアニメーションを思わせるような“作り物”っぽい雰囲気があって、月並みな表現だけど「絵本の中に入り込んだかのような世界観」が心地良い。
「何かを覗き込む」という演出が多く使われていて、“覗き穴の向こう側に広がる世界”の実在感に3D表現の醍醐味を感じた。

なかでも、映画開始数分間の長回し風(一部カット割りされてるので、あくまで“風”)の映像が特に素晴らしかった。
“体感アトラクション”的な気持ちよさを感じながら、作品の舞台である駅(“あのシーン”があるってことは、おそらくモンパルナス駅なんでしょう)の構造や、駅を彩る脇役たちの人物像までも、言葉を使うことなく説明しているのが見事。
個人的な感覚としては、『アバター』の3D表現を一歩前へ進める作品がようやく出てきたな〜、という印象だ。

また、物語上重要な「映画とは“夢”を生み出すMAGICなんだ!」という想いに対し、劇映画での表現方法として現時点の最先端である3Dを使うことはすごく自然なこと。
「今、流行っているからとりあえず3Dにしてみましたテヘペロ」的な姿勢とは明確に違うのだ。

そう、映画に限らず“表現手法の選択”ってのは本来こうあるべきなんだよ!、という当たり前のことを思い知らされた。

Hugo 04

そんなわけで、冒頭から一気に心をわしづかみにされたわけなんだけど、そこからの展開も、もう、大好き!

序盤〜中盤は、予告編から想像されるような「ファミリー向けのファンタジーっぽい映画」風に、主人公ヒューゴと機械人形の物語が進行していく。
予告編の印象から「少年」と「心を持った機械人形」の成長の物語みたいなものを想像していたけれど、機械人形が「何かを書く」という仕掛けを組み込まれただけの“ただの人形”だったという点はちょっと意外だった。

親を亡くし、保護者の叔父からも見捨てられていたヒューゴは、ゾッとするほどの孤独の中に生きながらも、機械人形に父親との繋がりを見出している男の子。
それが荒唐無稽な話だと頭で理解しつつも、人形が書く言葉が「父からのメッセージ」だという想像(妄想)を心の拠り所に、人形を修理しながら日々暮らしているの。
人形に“父”そのものを重ねたり、擬人化することで孤独を紛らわすのではなく、あくまで“機械”である人形によって生かされているというのが、心底切ない。

だからこそ、イザベルとの出会いや、イザベルの養父パパ・ジョルジュとの出会いなどを経て、ようやく人形の修理が完了したとき、人形が書いたものが“全く意味不明なもの”だったことがあれほどの衝撃だったのだろう。
「機械は直っていなかった」「自分には機械を直すことなんて無理だった」と、人生全否定級の絶望を味わってしまうことにも納得がいくし、そんなヒューゴにかける言葉を見つけられないイザベルの気持ちも、痛いほどによくわかってしまう。
そして、その絶望が理解できるからこそ、そこから「再び機械が動き出す」→「機械は直っていた!」→「書かれていたのは『絵』だったんだ!」と喜ぶヒューゴの姿に、こちらも心からの喜びを覚えるわけですよ!

さらに、ここで描かれた「絵」の導きによって、ヒューゴの人生は確実に“正しき方向”に向かったわけで。
直接のメッセージではないものの、「書かれたもの=絵」の存在が父からのメッセージたり得ているというのが実に感動的。
まだまだ中盤ですが、早くもここで号泣なのは間違いないのだ!

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と同時に、この機械人形が『絵』を描くことは、物語上も重要なターニングポイント。

絵を描き上げた機械人形が、絵の右下にサインを書くんだけど、それが映画史における最重要人物の一人でもある実在の“ある人物”の名前なのだ。

<警告:“ある人物”の正体についてのネタバレにつきましては、ホントに知らずに見た方がいいと思います。
じゃあ書くな!と思う方もいるでしょうけども、まあ、アツく書き綴りたい気分なんだよ!!>

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その“ある人物”の名前というのは、「ジョルジュ・メリエス」!
駅のおもちゃ屋の店主で、やっかいな頑固ジジイと思われていたパパ・ジョルジュが、実は伝説だけを残して死んでしまったと思われていたメリエスだったという、まさかの超展開が待っていたのだ!
人を喜ばせることが大好きで、“夢を生み出す魔法使い”メリエスだったが、第一次世界大戦により人々が映画から離れてしまったことで全てを失い、今ではしょぼくれた爺さんになってしまっていたということらしい。
こんなストーリー、あの予告編から想像つくかい!!

そして、ここから先は、「歩みを止めてしまった天才メリエスが、再び歩き出すための物語」へと変貌を遂げる本作。
メリエスを立ち上がらせるのは、もちろんヒューゴとイザベルだ。

とはいえ、いい年の爺さんが単純に立ち上がってくれるはずもなく、ヒューゴたちの行動が裏目に出ることも。
ただ、世界大戦が社会全体に大きな闇をもたらしていることが、ちょっとしたことからも感じられ(コミカル担当の駅の公安官の義足など。)、「何だこの頑固ジジイ!分からず屋め!」とはならない。
むしろ、どちらの気持ちもわかるからこその、辛い時間が続くことになる。

ただ、そんなメリエスを救うのは、やっぱり映画なんですよ!

現役時代、撮影スタジオでメリエス本人にかけられた言葉、

夜、眠るとき、夢がどこからくるのだろうと思ったことはないかい?まわりをごらん。ここでは夢を作っているんだ

という言葉に感動し、映画の世界へ進んだタバール教授を連れたヒューゴは、メリエスの映画がいかに素晴らしく、どれだけかけがえのないものだったのかをメリエス本人にぶつけるのだ。

ここで、ママ・ジョルジュ(イザベルの養母。ジョルジュ・メリエスの妻)もメリエス作品のほとんどに出演していた女優だったことが判明。自分の、そして何よりも夫・ジョルジュ・メリエスが最高に輝いていた時代をもう一度見たいという想いから、ヒューゴらが持ってきたフィルムを観ることを決める。
カタカタと音をたてて上映される映画。そして、それを見るママ・ジョルジュの幸せそうな顔で僕の涙腺は決壊してしまい、これ以降は「涙で前が見えません。。。」状態での鑑賞となりました。
3Dメガネが邪魔で邪魔で。。。

そんなこんなで、みんなでほっこりと映画を見ていると、そこに床に伏せていたはずのメリエスの姿が。

どこにいても映写機の音はわかる

というセリフに、メリエスの映画への愛を感じで、ここでも涙。

自分の映画がちゃんと愛されていたことを知ったメリエスは元気を取り戻し、自分の半生を語りだすんだけど、ここでの再現映像がとてつもなく楽しく、これもまた本作のかけがえのない魅力の一つだった。

なんてったって、あの「月世界旅行」のメイキング風景なわけですから。
「月世界旅行のメイキングが見れるのは『ヒューゴの不思議な発明』だけ!」という点だけでも、本作の満足度がとてつもなく高いことは言うまでもないだろう。

当然「映画」そのものが生まれたばかりの時代。CGはもちろん、アナログの編集機器すら無い時代。
それでも、知恵を絞って工夫を凝らしながら、みんなで「映画(すなわち「夢」と「魔法」)」を作っているという“熱”に、胸がが高鳴らないわけがない。

ただ、この再現映像は「喜び」だけでなく「絶望」もはらんでいる。
やがてメリエスが落ちぶれていくエピソードも語られるんだけど、作品のフィルムが溶かされて、靴の踵になっていくシーンは、本当に痛々しい。
この悲劇、誰かのせいにできれば少しは楽なのかもしれないけど、「戦争が始まり、人々が娯楽映画なんかに興味を持たなくなった」というしょうがないとしか言い用のない原因なのがまた、辛いとこでした。

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ここで、あの機械人形もメリエスの作品だったことを知ったヒューゴは、メリエスに機械人形を見せて喜ばせてあげたいと、再び駅へ戻るんだけど、もろもろあって公安官に捕まってしまう。
孤児であるために囚われることになるヒューゴだが、今、自分だけがメリエスを救えるということを知っているヒューゴの

『行かなきゃいけないんだ、わかるでしょ』

というセリフがたまらない。
これは、序盤でヒューゴがイザベルへ語る

世界ってひとつの巨大な機械だと思うと楽しくなるんだ。機械にはひとつとしていらない部品はない。ちゃんと必要なだけの数と種類の部品がある。もし世界が巨大な機械なら、ぼくらもなにか理由があってここにいるに違いない、そう思えるからね。

というセリフにつながる展開で、自分の“理由”を見つけたヒューゴは、そのために走り、叫び、訴えるのだ。
ものすごくベタな流れながらも、こんなもん、泣かずに見れるわけがない!!

最後、メリエスの元に人形を届けることが出来たヒューゴはメリエス一家の一員となり、完全復活を果たしたメリエスは、再び“魔法使い”として人々の前に立つ。
劇場に立ったメリエスは、スタンディングオベーションで迎えられるんだけど、ここで僕も立ち上がり、拍手を送りたい気持ちで一杯だった。なんで映画館ではスタンディングオベーションしちゃダメなんですか!!
そして、この物語がイザベルの手で書かれた物語であることがわかり、みんなが素敵な今を生きてるんだな〜、という優しい気持ちでのフィナーレを迎えた。

うーん。えらい長い文章になりましたが、本当に素晴らしい映画だった!

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この映画に一つだけ不満があるとすれば、それはやはりタイトル。
「ヒューゴの不思議な発明」と言いつつ、ヒューゴが特に何も発明していないのが気になってしまう。

というわけで、原作「ユゴーの不思議な発明」を読んでみたんだけど、それで納得。
(ちなみに原作小説は、絵本とも小説とも違う独特な本で(ショーン・タンの「アライバル」なんかに近い感じ。)魅力的ですよ。)

原作には、映画を見た人でも驚ける“ある展開”が待っていて、たしかに間違いなく「ヒューゴの不思議な発明」の物語になっている。

これもさくっとネタバレしてしまいますが、原作ではすべてのお話が終わった後、「実はこの本を書いたのは、ヒューゴが発明した機械人形でした」というオチがつくのだ。
ただ、原作の展開だと、最終的にイザベルの「存在理由」が語られないことになってしまうわけです。
「もし世界が巨大な機械なら、ぼくらもなにか理由があってここにいるに違いない」のシーンはあるのに、“理由”が語られないってちょっと残酷です。。。

だからこそ、物語の書き手をイザベルに変更した映画版は原作より優れていて、そのために「不思議な発明」要素が消えてしまうのはすごく正しいと思うんですよ。
じゃあなんでタイトルそのまんまなんだよ!と思ったら、映画の原題は「HUGO」なのね。。。
原作の原題は、「The Invention of Hugo Cabret(ヒューゴ・カブレの発明)」なので、映画版のタイトルからは「不思議な発明」が消えているのだ。

うーん。タイトルへの不満を生み出した犯人は、日本の配給会社だったようです。。。残念!

というわけで邦題への不満はありつつも、大変すばらしい物語なうえに、そこで語られる映画史、そして“映画愛”が非常にアツい映画。
映画好きならば、好きにならない要素が見当たらない最高の映画だった。

いやー、映画ってスバラシイぜ!

この感想記事は、ultimate-ez.comの前身ブログ『e視点』にて2012年3月28日に投稿した記事に加筆修正を加えたものです。

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